UZAWA HIROFUMI  現代思想3月臨時増刊号 (徳忍の学習帳)

<テキスト〔ケインズー=ベヴァリッジの時代を振り返って〕>   宇沢弘文著

パックス・ブリタニカ、イギリスの力によるイギリスのための平和は、19世紀初頭に始まって、イギリスが、強力な海軍と海賊的民主主義に支えられて、世界の政治、軍事、経済、夜会、文化を支配した時代を示す。
パックス・ブリタニカは1905年、その頂点に達した。イギリス海軍が他の二大海軍国を合わせた海軍力をはるかに超えるものとなったのである。
しかし第一次世界大戦を契機に凋落の道を歩み始め、1929年ニューヨーク株式市場の大暴落に始まる大恐慌、さらに第二次世界大戦を経て決定的なものとなっていった。そして1945年8月、日本の無条件降伏とともにパックス・ブリタニカに代ってパックス・アメリカーナの時代が始まったのである。

このパックス・ブリタニカの凋落にジョン・メイナード・ケインズ、ウイリアム・ベヴァリッジという二人の傑出した経済学者が現れて、経済社会の破綻、崩壊をいかにして防ぐか、またその犠牲となった人々の悲惨と苦悩をいかにして救うかという問題に対して、経済学の英知を知り尽くし、力を合わせて闘った、パックス・ブリタニカの最後の輝きを放った一時期であった。
ケインズ=ベヴァリッジの時代と呼ばれている。

〜ケインズの経済学〜

ケインズの経済学は、大恐慌が資本主義に与えたショックに対する一つの経済学的処方箋であり、同時に、ロシア革命後の社会主義の台頭に対するアンチテーゼを形成するものであった。大げさな表現を用いるならば、ケインズ経済学は、世界資本主義の一般的危機の生み出した産物であり、その政策的帰結は、この一般的危機を解決する処方箋を与えることとなったといっても過言ではないであろう。
ケインズは、『一般理論』を始めとして、多くの著作を残したが、それらのすべてを通じて一つの理念が貫かれている。
<資本主義市場経済制度のもとにおける資源配分、所得配分は必ずしも効率的ないしは公正なものではない。また、経済循環のメカニズムも安定したものではなく、政府がさまざまな形で経済分野に関与しなければ、安定した、調和のとれた経済運営は望み得ない。>
政府はたんに、所得分配の平等化という古典的な政策目標だけではなく、さらに労働の完全雇用と経済活動の安定化という要請に応えて。財政、金融対策を弾力的に運用するという、のちにケインズ主義と呼ばれるようになった資本主義経済の運営理念と求めたのである。

〜インドの通貨と金融〜

ケンブリッジ大学を卒業したケインズが最初に就職したのはインド省であった。インド省にいたときの体験に基づいて書かれたのが、ケインズの最初の経済学に関する著作『インドの通貨と金融』である。その主題は金と銀の相対価格がどのようにして決まってくるかもいう問題であった。
イギリスは金本位制をとり、インドは銀本位性をとっていた。したがって、ポンドとルピーの為替レートを決めるのは、金と銀の相対価格である。
当時イギリスでポンドとルピーの為替レートが、単なる経済的次元を越えて、社会的な観点から大きな問題となっていたのは、イギリスの軍事費と国家公務員年金はインドが負担していて、ルピーで支払われていたからである。
イギリスの軍隊はインドを守るためにあるという名目で、軍事費の大半はインド政府が支払った。またイギリスの国家公務員は、その任期中に一度はインドに赴任することになっていて、インドのために働いたという名目が作られていた。そして、退職後の年金は当然、インドが負担することになっていた。E・M・フォスターの『インドへの道』の世界である。
イギリスのインド支配は人類の長い歴史のなかでも、際立って残忍、冷酷で陰惨をきわめたものの一つである。インドの社会は分断され、自然は荒廃し、文化は破壊尽くされた。残ったものは冷酷なカースト制度だけだったというと言い過ぎになるかもしれないが、インドは今なお、300年にわたったイギリスのインド植民地支配の傷痕が深く残っている。
このことを不問に付して、ただポンドとルピーの為替レートの研究に情熱を注ぐケインズに対して、私はつよい違和感を覚え、つよい反発を感じざるを得ない。

〜理想主義者ウイリアム・ベヴァリッジ〜

ベヴァリッジは、ケインズの華麗な文学的才能、人を魅了する爽やかな弁別、鋭い論理的思考を持ち合わせてはいなかった。いかし、ベヴァリッジは常に、社会の底辺にあって、失業、貧乏、病気などのさまざまな不運に見舞われて、苦しみ、悩む人々をいかに助け、救済するかに力を尽くし、すべての人々の人間的尊厳が守られ、魂の自立を保ち、市民の基本的権利を享受することができるような社会を具現化するというすぐれて理想主義的な理念を貫いて、長い一生をおくった。
たしかに、ベヴァリッジがオックスフォード大学を卒業してもまもなくロンドンのトインビー・ホールという世界最初のセツルメント・ハウスに就職したときの動機は必ずしも純粋なものではなかったかもしれない。しかし、トインビー・ホールでの生活、つづいて日刊紙『モーニング・ポスト』の記者時代のウェブ夫妻の知遇を得て、失業、社会福祉の問題に深い関心を示しようになり、1909年『失業—産業問題』を書き上げたのである。

〜「ベヴァリッジ報告」〜

1941年1月、イギリスが大陸から完全撤回して、ロンドン空襲がいよいよ始まろうとするとき、当時の首相チャーチルは、勝っても負けても、破壊と荒廃しか残らないことを憂いて、戦後の社会秩序をどのように再構築するかを検討する戦後再建問題委員会を設置し、無任所大臣アーサー・グリーンウッドを委員長に指名した。同じ年の6月グリーンウッドは社会保障と関連サービスに関する小委員会を立ち上げ、ベヴァリッジを委員長に任命した。

小委員会に与えられた課題は、社会保障に関する国の現行の諸制度を調査し、勧告することだった。しかしベヴァリッジはそれをはるかに超えて、理想的な社会保障制度のあり方全般についての調査、研究を始めた。そしてひとり一人の人間的尊厳と魂の自立が守られ、すべての市民の基本的人権が待たされるような社会を実現するための基本条件としての社会保障制度をもとめようとした。
社会保障制度を「社会的共資本」の要に位置づけようとしたのである。
そのために、ベヴァリッジは、ケインズに協力を求め、ケインズの高弟の一人で、当時、内閣官房の経済部にいたジェームス・ミードが実際のプラン作成の協力することなった。
ミードは、経済学のほとんどすべての分野で、深遠、かつ透徹した業績を残した。1977年ノーベル経済学賞を受賞した、イギリスが生んだもっとも優れた経済学者のひとりである。当時、ミードは財政均衡主義を貫徹しようとする大蔵省のヘンダーソンとの間で、乗数効果を重視し、いわゆるケインズ主義的な財政政策を主張して、きびしい論争を展開していた。医療を中心として社会保障関係の支出は乗数効果が大きく、経済活性化の視点から重要な役割を果たすだけでなく、社会的安定性の維持のためにもおおきな貢献をすることを強調したのである。
ミードはまた、理想主義者ベヴァリッジと現実主義者ケインズの間の緊張感を見事の調整して、ベヴァリッジ委員会の成功を可能とするための重要な役割を果たした。
小委員会は、委員長のベヴァリッジの他は、関係省庁から派遣された官僚たちから構成されていた。このベヴァリッジの壮大な考えに対して、大蔵省は強く反対した。委員たちのまた、逡巡し、自由な発言をすることができなくなってしまった。そこでグリーンウッドの計らいで、ベヴァリッジ以外の委員はすべて顧問に切り替えて、その発言には責任をとる必要がなく、最終報告書もベヴァリッジ一人が署名することとなった。

ベヴァリッジヴァリッジ委員会の報告『社会保険および関連サービス』は1942年11月に議会に提出され、12月には一般向けに出版された。
『ベヴァリッジ報告書』が出版されると、二時間で七万部、一年間で62万5000部売れたのいう記録が残っている。
二ヶ月後の世論調査では、ベヴァリッジ報告を知っているもの95%、賛成88%、反対6%であった。
この一般大衆の圧倒的な支持を背景として、ベヴァリッジ報告書を法制化する作業が進められたわけであるが、大蔵省の抵抗は執拗であった。
一時期、この問題についてベヴァリッジと接触することを禁止する通達が政府部内に流された程である。その理由は、医療、基礎年金、児童手当、寡婦年金など社会保障に関わる財源を基本的には税収に求めようとしたがらである。

すべての国人にたいして生まれてから死ぬまで国の責任で補償する社会制度の整備を勧告したベヴァリッジ報告は歴史的意味を持つ。
1955年7月の総選挙で、労働党が勝利して、アトリー政権が成立した。保健相に任命されたベヴァンはただちに、ベヴァリッジ報告に基づいて、社会保障制度の制度化を進めていったが、その中核をなすのが1948年に発足したナショナル・ヘルス・サービス(NHS)であった。
NHSは、発足当時、すべての国民(居留外国人を含め)を対象として、原因を問わず、すべてに傷病に対して、無償の医療サービスを提供し、その費用はすべて国が負担するというものであった。
このNHS制度は、創設以来しばらくの間、イギリスの人々だけでなく、世界の多くの人々の希望と夢を支えて、理想的な医療を供給してきたように見えた。しかし、イギリス政府はもっぱら財政的な理由から新しい病院の建設、高いペースで進展しつつあった医療技術を具体化した設備、機器なの導入を極端に抑制し続けた。また医師に対する官僚管理が厳しく、その経済報酬も非常なまでに低く抑えられたために、医師の海外流出が年々加速度的に増えていった。1960年代に入るとともに、医師、看護婦などの
メデイカル・スタッフ、医療施設、設備の不足、それに伴う医療サービスの質の低下、地域間の格差が拡大し始め、1970年代を通じてNHSのものにおける医療サービスの質は年々悪化し続けた。

〜サッチャー「改革」とNHSの崩壊〜

1979年サッチャー保守党政権が誕生した。
サッチャーは当初、NHSの改革については慎重であった。サッチャー政権下では、国鉄、電話、通信、ガスなどの国営事業が民営化されたが、国民のNHSに対する支持は高く、その民営化は断念せざるを得なかった。しかし、1983年に二期目の政権に入ると、衣料費抑制の旗印を掲げ、医師、看護婦など医療従事者に対する官僚的管理を強め、病院経営の徹底した効率経営を求めて、さまざまな市場原理主義的な「改革」を断行した。
その中心が内部市場制度の創設であった。
この「内部市場制度」を考え出したのは、アラン・エントホーフェンというアメリカの経済学者であった。アラン・エントホーフェンはかって、ベトナム戦争の最中、マクナマラ国防長官の右腕として、<Kill-Ratio>という市場原理主義的な指標を導入して、もっと効率的に戦争をすることに力を尽くした人物である。
<Kill-Ratio> というのは、「ヴェトコン」を一人殺すのに何万ドルかかるかという指標である。この<Kill-Ratio>を最小にすることを戦争政策の目標にかかげたのである。限られた戦争予算の下で、出来るだけ数多くの「ヴェとコン」を殺そうという考え方である。
このことが新聞で報道されて、その残虐性、非倫理性に対して、アメリカだけではなく、世界中から厳しい批判が巻き起こった。その結果、マクナマラ自身、精神的、倫理的の追いつめられて国防長官を辞任した。ついでジョンソン大統領も再選を断念せざるを得なくたって、ベトナム戦争の終結への道が拓かれることとなった。
そのエ、ントホーフェンが今度は、<Death Ratio>ともいうべき市場原理主義的な考え方つかって、衣料費抑制政策を徹底追及して、NHSの全面的崩壊への道を拓くことになったわけである。
<Death Ratio>すなわち患者一人当たりの死に至るまでの医療費を最小にすることによって国民医療費を抑制しようとした。
とくに<Death Ratio>は、年齢の高い老人に焦点をあてた。たとえば60歳以上の老人に対しては腎臓透析を禁止するという乱暴な通達まで出された。

サッチャー改革の結果、志のも高い医師の多くが海外に流出した。1990年代後半、労働党政権になってブレア首相がNHSの立て直しを図ったときは、医師不足で入院待機患者が130万人にたっするという異常事態だった。ブレア政権が当初5年で総医療費を50%増やすことにし、ついで10年で総医療費を2倍にし、医者の数を50%増やすことと決めたが、一度壊された職業的倫理と志を回復することは不可能に近い。
私たちは、イギリスのNHS崩壊の歴史から多くを学ばなければならない。

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