The Daily Drucker ドラッカー365の金言(徳忍の学習帳)

《 10月17日〔社会の良心〕 》 〜2015年4月21日〜

〔宗教は、神の王国を捨ててまで、社会を受入れることはできない。〕

二つの大戦の間、宗教はヨーロッパの社会と政治に基盤を与えられなかった。
当時の人たちが教会を無視したわけではない。
キリスト教は個としての人間の絶望と苦しみに対しては答えを与えたが、大衆としての人間の絶望に対しては答えを与えられなかった。
このことは今日も変わらない。
西洋だけでなく、今日ではあらゆる世界の人間が、この世を捨てることができなくなっている。
救いを求めるとき、かれらはこの世における救いを求める。

宗教とくにキリスト教は、福音を説くことができる。説かなければならない。
しかし、祝福をもって政治に代え、贖罪をもって社会科学に代えることはできない。しかも代えてはならない。

宗教は、いかなる社会においても良心たりうる。
しかし宗教は、神のみとともにある魂の王国、神の王国を捨ててまで社会を受入れることはできない。
この点にこそ、社会における良心としての宗教の強みがあるとともに、社会における政治勢力、社会勢力としての、いかんともしがたい弱みがある。

【解説】

ドラッカーの宗教にかかわる内容は珍しいのではないでしょうか。
戦時には、宗教(キリスト教)は個々人の苦しみには答えたが、大衆の苦しみには答えませんでした。
宗教(キリスト教)は、個々人に対して福音を説くことができるし、説くべきであるとします。
しかし、政治の場での意思表示(神の声)を表明しません。ローマ法王の発言レベルが精一杯です。
イスラム教の世界な良くわかりませんが、跳ね返りの“極右”勢力の跋扈している現状と理解しております、
元来宗教(仏教)の世界は、個人的悟り経験が基本です。知的仏教である禅宗では、修行により個々が悟りを目指します。
一方、情的仏教である浄土真宗では、他力本願で念仏を唱え仏の大慈悲にすがります。以上は、鈴木大拙の受け売りです。

(2015年4月21日14:00徳忍記)

この項は、『経済人の終わり』〜1939年〜 からのものです。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加