《良書で学ぶ!》〔白隠禅師座禅讃講話〕

【徳忍学習帳】で一節ずつ、原田先生の講義で学び、読み込み、
徳忍が感想を添えます。

書名
〔白隠禅師座禅讃講話〕
〜白隠禅師座禅和讃〜

原田 祖岳 著 大蔵出版<600円>

正宗国師座禅讃(しょうじゅうこくしざぜんさん)

《全文》

衆生本来佛なり(しゅじょうほんらいほとけなり)水と氷の如くにて(みずとこおりとごとくにて)

水を離れて氷なく(みずをはなれてこおりなく)衆生の外に佛なし(しゅじょうのほかにほとけなし)

衆生近きを知らずして(しゅじょうちかきをしらずして)遠く求むるはかなさよ(とおくもとむるはかなさよ)

譬えば水の中にいて(たとえばみずのなかにいて)渇を叫ぶが如くなり(かつを)さけぶがごとくなり)

長者の家のことなりて(ちょうじゃのいえのことなりて)貧里に迷うに異ならず(ひんりにまようにことななず)

六趣輪廻の因縁は(ろくしゅりんねのいんねんは)己が愚痴の闇路なり(おのれがぐちのやみじなり)

闇路に闇路を踏み添えて(やみじにやみじをふみそえて)いつか生死を離るべき(いちかしょうじをはなるべき)

それ摩訶衍の禅定は(それまかえんのぜんじょうは)称嘆するに余りあり(しょうたんするにあまりあり)

布施や持戒の諸波羅蜜(ふせやじかいのしょはらみち)念仏懺悔修行等(ねんぶつざんげしゅぎょうとう)

その品多き諸善行(そのしなおおきしょぜんぎょう)皆この中に帰するなり(みなこのなかにきするなり)

一坐の功をなす人も(いちざのこうをなすほとも)積みし無量の罪ほろぶ(つみしむりょうのつみほろぶ)

悪趣いずくにありぬべき(あくしゅいずくにありぬべき)浄土すなわち遠からず(じょうどすなわちとうからず)

辱くもこの法を(かなじけなくもこののりを)ひとたび耳にふるるとき(ほとたびみみにふるるとき)

讃歎随喜する人は(さんだんずいきするひとは)福を得ること限り無し(ふくをうることかぎりなし)

況んや自ら回向して(いわんやみずからえこうして)直に自性を証すれば(じきにじしょうをしょうずれは)

自性即ち無性にて(じしょうすなわちむしょうにて)すでに戯論を離れたり(すでにけろんをはなれたり)

因果一如の門ひらけ(いんがいちじょのもんひらけ)無二遣亦無三の道直し(むにむさんのみちなおし)

無相の相を相として(むそうのそうをそうとして)行くも帰るも他所ならず(いくもかえるをよそならず)

無念の念を念として(むねんのねんをねんとして)謡うも舞うも法の声(うとうもまうものりのこえ)

三昧無礙の空ひろく(さんまいむげのそらひろく)四智円明の月さえん(しちえんみょうのつきさえん)

此の時何をか求むべき(このときなにおかもとむべき)寂滅現前する故に(じゃくめつげんぜんするゆえに)

当処即ち蓮華国(とうしょすなわちれんじこく)此の身即ち佛なり(このみすなわちほとけなり)

〔白隠禅師について〕

白隠禅師は、江戸時代に生きた(1685〜1768)傑僧です。臨済宗の中興の祖と云われます。500年に一人と称されるで人材で「駿河には過ぎたるものが二つある。一に富士山、二に腹の白隠」と云われていたそうでする。

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