《良書で学ぶ!》[白隠禅師座禅和讃](第二講)

【徳忍学習帳】で一節ずつ、原田先生の講義で学び、読み込み、
徳忍が感想を添えます。

書名
〔白隠禅師座禅讃講話〕
〜白隠禅師座禅和讃〜

《第二講》

〜本文〜
水を離れて氷なく(みずをはなれてこおりなく)
衆生の外に佛なし(しゅじょうのほかにほとけなし)

<講義>

まず第一句の「衆生本来佛なり」これが全文の大前提です。如何に心が動いても騒いでも、その内容に変わりはない。本質の仏生がただ盲目的に騒いでいるだけであって、それ自身が実は本質そのものの丸出しなのです。
手を動かし、足を動かし、腹を立て、喜び、悲しむ、それも皆本質の丸出しであるという意味です。然しながら、これは仏祖の目からご覧になれば「水を離れて氷なし」であるが我々凡夫からいうと、「氷を離れて水あり」であります。即ち「衆生の外に佛あり」ということになっております。ここから「衆生本来佛なり」の境地(正しい道)を極めるために精進の生活、修行の生活が始まるわけです。禅門の修行で、ハッと気のつく時節が来る、これを禅門では、見性(けんしょう
)をいいます。・・・・・

《解説》

「佛」=「衆生」、「水」=「氷」と白隠は解りやすく説いています。
つまり、「佛」と「衆性」との関係は、「水」(佛)と「氷」(衆生)の関係なのだと云う訳です。一般大衆(我々)に、「仏性」があるとします。
禅の修行とは、我々の中にあるという「仏性」探し(確認)だと思います。坐って考え、見性結果を師家(指導者)に悟りのレベルを評価してもらうという座禅の修行の方式は解りますが、そもそも、禅者(仏教の本質を求める者)の修行の目的は何ですか。悩み多き[衆生の済度(悩みから救い出す)]ことの筈です。
白隠禅師は、貧乏寺の住職としての50年間、[大衆説得大法挙揚]に専念されたとあります。その間、大悟(完全な悟り)すること13度、小悟(小さな悟り)は数知れずということです。想像するところ禅師は、大衆(衆生)との接触の中でその仏性を発見し《大悟(完全な悟り)すること13度、小悟(小さな悟り)は数知れず》ということであったと理解すべきでしょう。そこで、しみじみ、「衆生本来佛なり」を確信されたのでしょう。
(徳忍記)

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