《良書で学ぶ!》〔白隠禅師座禅和讃〕(第三講)

 
【徳忍学習帳】で一節ずつ、原田先生の講義で学び、読み込み、
徳忍が感想を添えます。

書名
〔白隠禅師座禅讃講話〕
〜白隠禅師座禅和讃〜

《第三講》

〜本文

衆生近きを知らずして(しゅじょうちかきをしらずして)       

遠く求むるはかなさよ(とおくもとむるはかなさよ)

<解説>

 まず第一句の「衆生本来佛なり」これが全文の大前提です。つまり、衆生(心を持つ全ての存在=人々)は、仏性(佛の本性、佛になれる可能性)を持っているのです。

 その佛の本性をもった衆生が、私たちの周辺にいるのです。どうして、「佛」あるいは「仏性」を遠くに求める(本を読み、賢者の教えを請う)のですか。

 白隠禅師は、〔座禅和讃〕の中で禅門に於いて常に「回向返照」、「照顧脚下」といって、足元を見よ、眼前を直視せよ、と警告しているのを、解りやすく云っているのです。

 ここで、昨今の禅道修行の問題点を見つけました。足元を見よ、眼前を直視せよ、とは、衆生を接し、その過程で衆生の中に仏性を確認(発見)せよ、と諭している訳ですが、そのような受け止め方が弱いように感じます。
 
 白隠禅師の〔座禅和讃〕を講じながら、<庶民に仏性ありや!?>を講じながら、絶対宇宙の心理にまで、話しを飛躍させてしまう日本の禅界のジレンマを感じます。つまり、哲学論にしてしまうのです。
衆生の言動の中に仏性を感じ取り、衆生の言動の変化に自らの変化の投影を見つけて“小悟(小さく悟る)”したいものです。それが白隠禅の真骨頂ではないですか。
(徳忍記)

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