《良書で学ぶ!》〔白隠禅師座禅和讃〕(第七講)

【徳忍学習帳】で一節ずつ、原田先生の講義で学び、読み込み、
徳忍が感想を添えます。

書名
〔白隠禅師座禅讃講話〕
〜白隠禅師座禅和讃〜

《第七講》

〜本文〜

《これまでの文》
衆生本来佛なり(しゅじょうほんらいほとけなり)水と氷の如くにて(みずとこおりとごとくにて)
水を離れて氷なく(みずをはなれてこおりなく)衆生の外に佛なし(しゅじょうのほかにほとけなし)
衆生近きを知らずして(しゅじょうちかきをしらずして)遠く求むるはかなさよ(とおくもとむるはかなさよ)
譬えば水の中にいて(たとえばみずのなかにいて)渇を叫ぶが如くなり(かつをさけぶがごとくなり)
長者の家のことなりて(ちょうじゃのいえのことなりて)貧里に迷うに異ならず(ひんりにまようにことならず)
六趣輪廻の因縁は(ろくしゅりんねのいんねんは)己が愚痴の闇路なり(おのれがぐちのやみじなり)

《本日の文節》

闇路に闇路を踏み添えて(やみじにやみじをふみそえて)いつか生死を離るべき(いちかしょうじをはなるべき)

<講義>

 さて、人間は六つの迷いの世界(「地獄」、「餓鬼」、「畜生」、「修羅」、「人間」)を、浮きつ沈みつさががら車の廻るように転びゆき、果てしなき所謂(いわゆる)六道輪廻を繰り返しつつ、大悟徹底するまでは迷いの世界から抜け出せません。
これは誰のせいでもなく、己の妄執からくるものなのです。仏教の根本的な考え方は、自分の迷いがその根本にあるとするところです。
 不平と愚痴の暗愚の世界からは、いかにジタバタしても所詮助かる見込みはありません。心眼に燈(もとしび)を点ぜざれば、いつの世にか生死流転の闇路の苦悩から脱することができないのです。

<解説>

この〔白隠禅師座禅和讃〕の構成は、極端から極端に衆生の心を揺さぶります。
〔衆生は、本来佛なのです!〕と入りながら、 六趣(「地獄」、「餓鬼」、「畜生」、「修羅」、「人間」、「天上」)輪廻の因縁から抜けだけない人間の“業(ごう)”を嫌になるほど吹き込みます。
現状の世界を見ると、世界は「地獄」、「餓鬼」、「畜生」、「修羅」の辺りを行きつ戻りつしております。しかし、日本人の庶民感覚では、実感有りません。多分。白隠の生きた江戸時代の庶民感覚は、これに近かったのでしょう。
〜以下次回〜(徳忍記)

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