《良書で学ぶ!》〔白隠禅師座禅和讃〕(第九講)

【徳忍学習帳】で一節ずつ、原田先生の講義で学び、読み込み、
徳忍が感想を添えます。

書名
〔白隠禅師座禅讃講話〕
〜白隠禅師座禅和讃〜

《第九講》

〜本文

《これまでの文節》
衆生本来佛なり(しゅじょうほんらいほとけなり)水と氷の如くにて(みずとこおりとごとくにて)
水を離れて氷なく(みずをはなれてこおりなく)衆生の外に佛なし(しゅじょうのほかにほとけなし)
衆生近きを知らずして(しゅじょうちかきをしらずして)遠く求むるはかなさよ(とおくもとむるはかなさよ)
譬えば水の中にいて(たとえばみずのなかにいて)渇を叫ぶが如くなり(かつをさけぶがごとくなり)
長者の家のことなりて(ちょうじゃのいえのことなりて)貧里に迷うに異ならず(ひんりにまようにことならず)
六趣輪廻の因縁は(ろくしゅりんねのいんねんは)己が愚痴の闇路なり(おのれがぐちのやみじなり)
闇路に闇路を踏み添えて(やみじにやみじをふみそえて)いつか生死を離るべき(いちかしょうじをはなるべき)
それ摩訶衍の禅定は(それまかえんのぜんじょうは)称嘆するに余りあり(しょうたんするにあまりあり)

《本日の文節》
布施や持戒の諸波羅蜜(ふせやじかいのしょはらみつ)念仏懺悔修行等(ねんぶつざんげしゅぎょうとう)
その品多き諸善行(そのしなおおきしょぜんぎょう)皆この中に帰するなり(みなこのなかにきするなり)

<講義>

 この辺りは、ちょっと難しい言葉は続きますが、知識として挑戦します。

「布施」とは、施し(ほどこし)です。この施し(ほどこし)には、3段階あります。

1段階目は、「財物」の施し(ほどこし)です。
2段階目は、考え方、知識の施し(ほどこし)です。
3段階目は、信念(絶対的悟り)の施し(ほどこし)です。

〜途中です〜

17日続きを始めます。
「布施」とは、施し(ほどこし)と言えば、坊さんはお釈迦様以来「托鉢」生活をします。
日本の坊さんはやりませんが、タイやビルマ(現ミャンマー)では、若い坊さん中心で毎
朝列をなして「托鉢」で大通りを歩きます。
道路沿いの家の人々は炊きたてのご飯等を坊さんの掲げ持つ鉢を入れて差し上げます。道路沿いで「托鉢」の坊さんを待つ人々は履物を脱いで裸足となり、坊さんに敬意を表しています。
さて、この“儀式”では、“貰って感謝している”のは、坊さんではなく、人々のほうなのです。
<貰う姿で、施している!>坊さんたちなのです。
勿論、坊さんたちにとっては修行の場です。これが精神的に退廃してくると、単なる“物貰い(乞食)”です。
生きた宗教を持つ国は健全です。
〜ここで一休みです(17日18:30)〜
 
一休みです〜

次の「持戒」とは、戒を守ることです。戒は“いましめ”です。持戒の生活ということが
あります。
自他の迷いや迷悟(迷いとさとり)や是非(よいことと悪いこと)得失(利と不利)のない絶対的生活、佛性そのものの生活です。
次に「念仏」です。この一言「念仏」が深いのです。口から出任せの念仏は地獄行きの所行なのです。
あらゆる妄念を徹底かかなぐり捨て、念じる者もなく、念ぜられるものもなくなった時が真の念仏なのです。
一遍上人の自らの念仏時の見解です。
『唱うれば我も佛もなかりけり、南無阿弥陀仏の声ばかりして』 
さらに『唱うれば我も佛もなかりけり、唯南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』
                                          
<解説>

私は、この種の解説を学びなから、ふと疑問に思うことがあります。
禅の場で「南無阿弥陀仏」を唱える場面に遭遇しないことです。
念仏と禅はいつの時代かに決別したのでしょうか。
念仏を唱えること、坐ること(坐禅をすること)が一体となっていた時代があったのではないでしょうか。(8月21日)

〜以下次回〜(徳忍記)

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