わたしの 戦 争 体 験

所沢雑学大学(No.346)
《グラマン機に右腕を奪われて・・・12歳の戦時体験》

小坂一郎

<村上の添え書き>
82歳の小坂さんの乾坤一擲の講演です。息子さんが隣りに座り講演をアシストしました。会場の最後列には奥さんが控えていました。
12歳の時に登校途中の満員の列車でグラマンの爆撃を受け、右腕を肩から先を奪われたのです。
その障害を物ともせず(苦学のすえ)大学院を卒業し、鉄道弘済会(キヨスク)の幹部を努めました。
その間に、脳内出血で、今度は左半身に障害を受けたのです。そして、リハビリの場で私は”同志的関係”を持ったのです。
よい講演でした。平和の大切さ、不屈のリハビリ魂を感動的に訴えました。

太平洋戦争の痕跡も消え、戦争があったこと自体までもが風化して来ている状況を見ていて、戦争体験者が、体験を語るのは義務のように思われ今日ここに出てきました。

1.今日の話の中心

私が岡山の工業学校に行く途中、山陽線の西大寺駅、現東岡山駅近くで米軍のグラマン機に襲われ右手を失った体験と当時の子供たちがどんなに酷い教育を受け、どのように戦争い巻き込まれたかなどと、その後右手を失った私がどのような人生を歩んだか。

2.終戦の日の昭和20年8月15日    晴天の暑い日
今日12時に大事な話があるから、全国民はラジオの前に集まるようにとの報道があり、ラジオのあるうちに人々は集まった。
その日の私と玉音放送を聞いた地域住民の様子。
陛下の言葉は難しくてわからず、ただ、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・という言葉だけが印象的に残っている。夕方電燈が付いた時初めて戦争が終わったことを実感した。

3.私がグラマン機に襲われた昭和20年7月27日

4月から岡山の工業学校(旧制中学)に入学し、近くに住む友達の「タケちゃん」と何時も自転車で山陽線の瀬戸駅まで一緒に行き汽車で岡山に通っていた。
この日の朝もタケちゃんが迎えに来てくれ、7時20分ごろ瀬戸駅について二人でホームに走った。
汽車が着いたので空いた乗り口を探して二人で走った。乗り口が見つからないので、僕は前に行くといったらタケちゃんは後ろに行くといい、お互いに走った。
これが永遠の別れとも知らず。私は機関車のすぐ後ろの車両に乗り、入り口に立っていた。
汽車が西大寺駅にちかづいたとき米軍のグラマン機が轟音とともに接近し、駅に到着すると飛び去った。
また動き出すと急接近、これを数回繰り返し、駅長の合図で再出発し数百メーター走った時、グラマン機は急接近するや、バリバリバリと機関銃を浴びせかけた。汽車が止まるや、みんな悲鳴とともに出口に殺到、私は右手が吹っ飛んだことも気づかずみんなと一緒に線路わきに飛び降り、更に側溝に飛び込んだ。気が付いたら貨物自動車の荷台の上だつた。ふと右手を見て驚いた。
肩の少し下から指先まで肉が吹っ飛び、腕の骨が木の枝のようになって付いていた。
次に気が付いたのは病院のベットのうえだった。
目が覚めた時母が、よかったね、お前は助かったんだよといった、私は反射的にタケちゃんはと聞いた。
死んだよとぽつりといった。
翌日先生が、ここは焼夷弾がいつ落ちるかわからず危険だから家に帰りなさいといわれ、外科医もいない田舎に帰り自然治癒を待った。そして終戦を迎えた。
終戦後まもなく国鉄からあの空襲のけがは戦時中の事だから賠償の請求はしないでほしいと覚書に署名押印を求められ父が応じる。
これで国からの補償は全てなくなった。

4.開戦前後の社会や学校の様子と戦時中

1)開戦前
私は岡山市から20キロほど奥の70世帯ほどの小さな山村に生まれた。
父は農業をおこないながら森林組合長や材木業、村会議員をやっており、祖父や叔父叔母私と弟の8人で幸せに暮らしていた。
学校は分教場、同級生は女3人男5人、山や池、川で楽しく遊んだ。村の祭りも楽しかった。
平和な村だった。戦争が始まる前までは学校の授業も楽しかった。
2)太平洋戦争勃発と戦時中
それが突然、昭和16年12月8日早朝、戦争が勃発。急に雰囲気も変わる。
その日の早朝、真珠湾沖に停泊中の米国戦艦に対し、人間魚雷となって潜水艦に乗り込み突撃して沈没させ、大戦果を挙げたと大騒ぎ。
その潜水艦に乗り込んだ一人が隣村の人だったのでさらに大騒ぎとなった。
その人は軍神片山兵曹長と云われあがめられることになる。
やがて、その生家にお参りし、先生から片山兵曹長のように死んでお国のために役立っようになれと諭される。
このことは絶えず話されたので、子供たちは早く死んでお国のために役立たねばと思い込んでしまった。
「死ぬことを目標にいきることをおそわったのだ。」
5年生から本校に行くが、木刀を持って敵兵の胸をつく訓練と多発する空襲警報で、何を勉強したか記憶がない。
しかし、機械いじりは好きで、自転車や柱時計などを分解しては組み立てなおすこ  とに夢中だった。
この様子を見ていた父が工業学校に行くことを勧める。機械の好きな私は喜ぶ。
工業学校
4月から毎日三角定規とからすみを持って通う。
規律は厳しく、陸軍から派遣された准尉が日本刀をぶら下げ校内を巡回し、規律違反を見回った。
6月空襲で岡山の街は焼け野が原、学校も焼けて郊外の仮校舎に通う、
7月にグラマンに襲われ右手を失う。工業学校は中断。8月終戦を迎える。
   
5.終戦の日についての思い

なぜ終戦が8月15日なのか、この日でなければならなかったのか。
もし終戦が1月早い7月15日なら、私は右手を失わなかったろうし、広島、長崎の原爆も、ソ連の参戦も無かったろうといつも考える。
3月10日の東京の大空襲、その後の大都市の空爆による焼け野が原、5月8日の同盟国ドイツの降参などを考えた時、なぜ戦争を終結しようと思わなかったのか。
さらに、7月26日の米英中による会談で、日本に対する終戦の要請、ポッダム宣言が採択され、米国を介して受け入れの要請があった。
この受け入れを巡って議論している間に広島に原爆が投下、慌てて天皇をお招きしての御前会議、その日にまた長崎に原爆、それでも結論が出ず、8月14日に再び御前会議、もうこれ以上国民を苦しめたくないという天皇の言葉で、やっと宣言を受諾。ポッダム宣言からこの日までの20日の間にどれだけ大きな被害をこうむったか。私は宣言の受け入れを邪魔した奴らが憎い。
 
6.戦争終結からその後の人生

1)元の中学校に復帰
1年留年で元の学校に復帰する
学校に行くために、腕の再手術、左手で字を書く練習と自転車に片手で乗る訓練、
岡山の学校に行くため、6キロ離れた津山線金川駅に2キロの峠越えの道を自転車で通う。朝は沿道の子供たちに手のないことで囃し立てられ、帰りは暗闇で怖いい思い。 2年生から岡山市内に下宿。片手の一人暮らしでさみしい思いをする。

2)高等学校に進学
工業学校に行っていたのに、いつの間にか商業学校に代わり、県立南高等学校となって持ち上がりで進学 右手を失った私にとっては都合がよかったが事情不明。
家から通うようになり、片手で何でもできるようになろうとまき割りから水汲みまで、できることは何でもやった。
だが、右手のない自分の将来が段々と不安になって、もっと知識を付けなければと思い、大学進学を考える。
だが字が下手で勉学も遅れ気味だったので、ストレートに入学とは行かなかった。
  
3)立教大学
ここで経済史で有名な松田智雄先生のゼミに入り大きな影響を受ける。ここでもまた右手がないことで将来に不安を持ち、研究者の道も考えってみようと大学院に進む。だが、修了時に経済史の助手の席に空きがないので希望者は他の大学を探すようにとの掲示が出る。私は就職を決意する。
  
4)鐵道弘済会
運よく試験に受かり採用される。ここはキオスクの益金で福祉の仕事を行う当時我が国最大の福祉事業団体だった。ここで。右手のないこともあって全国の福祉事業を統括する本部社会福祉部に配属された。ここでパラリンピック等の多くの外部の福祉の仕事とかかわるようになり多くの知己をうる。
最後はこの本部の社会福祉部長で退職、そのあと国鉄の業務障害者を支援する鉄道身障者福祉協会理事長
      
平成27年8月23日         
               

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