《良書で学ぶ!》〔白隠禅師座禅讃講話〕⑽

《良書で学ぶ!》
【徳忍学習帳】で一節ずつ、原田先生の講義で学び、読み込み、
徳忍が感想を添えます。

書名
〔白隠禅師座禅讃講話〕⑽
〜白隠禅師座禅和讃〜

原田 祖岳 著 大蔵出版<600円>

正宗国師座禅讃(しょうじゅうこくしざぜんさん)
《全文》 
衆生本来佛なり(しゅじょうほんらいほとけなり)水と氷の如くにて(みずとこおりとごとくにて)
水を離れて氷なく(みずをはなれてこおりなく)衆生の外に佛なし(しゅじょうのほかにほとけなし)
衆生近きを知らずして(しゅじょうちかきをしらずして)遠く求むるはかなさよ(とおくもとむるはかなさよ)
譬えば水の中にいて(たとえばみずのなかにいて)渇を叫ぶが如くなり(かつを)さけぶがごとくなり)
長者の家のことなりて(ちょうじゃのいえのことなりて)貧里に迷うに異ならず(ひんりにまようにことななず)
六趣輪廻の因縁は(ろくしゅりんねのいんねんは)己が愚痴の闇路なり(おのれがぐちのやみじなり)
闇路に闇路を踏み添えて(やみじにやみじをふみそえて)いつか生死を離るべき(いちかしょうじをはなるべき)
それ摩訶衍の禅定は(それまかえんのぜんじょうは)称嘆するに余りあり(しょうたんするにあまりあり)
布施や持戒の諸波羅蜜(ふせやじかいのしょはらみち)念仏懺悔修行等(ねんぶつざんげしゅぎょうとう)
その品多き諸善行(そのしなおおきしょぜんぎょう)皆この中に帰するなり(みなこのなかにきするなり)
一坐の功をなす人も(いちざのこうをなすひとも)積みし無量の罪ほろぶ(つみしむりょうのつみほろぶ)
悪趣いずくにありぬべき(あくしゅいずくにありぬべき)浄土すなわち遠からず(じょうどすなわちとうからず)
辱くもこの法を(かなじけなくもこののりを)ひとたび耳にふるるとき(ほとたびみみにふるるとき)
讃歎随喜する人は(さんだんずいきするひとは)福を得ること限り無し(ふくをうることかぎりなし)
況んや自ら回向して(いわんやみずからえこうして)直に自性を証すれば(じきにじしょうをしょうずれは)
自性即ち無性にて(じしょうすなわちむしょうにて)すでに戯論を離れたり(すでにけろんをはなれたり)
因果一如の門ひらけ(いんがいちじょのもんひらけ)無二遣亦無三の道直し(むにむさんのみちなおし)
無相の相を相として(むそうのそうをそうとして)行くも帰るも他所ならず(いくもかえるをよそならず)
無念の念を念として(むねんのねんをねんとして)謡うも舞うも法の声(うとうもまうものりのこえ)
三昧無礙の空ひろく(さんまいむげのそらひろく)四智円明の月さえん(しちえんみょうのつきさえん)
此の時何をか求むべき(このときなにおかもとむべき)寂滅現前する故に(じゃくめつげんぜんするゆえに)
当処即ち蓮華国(とうしょすなわちれんじこく)此の身即ち佛なり(このみすなわちほとけなり)

《本日の学習箇所》

一坐の功をなす人も(いちざのこうをなすひとも)
積みし無量の罪ほろぶ(つみしむりょうのつみほろぶ)

《講話》

一坐とは一度坐禅をするという意味で、功は功徳の意味です。
一坐は、一分間でも一日でも一坐ですし、十年に十年の一坐もあります。
たとえ一分間の坐禅によっても自己を本質化し、全宇宙を本質化できるのです。
そこでは功徳がうつり合い、今日まで積み来った深い罪業も一時に滅びさっていくのです。
自他を認めず、迷妄の夢を打ち破って「只」になり切れば、相手にするも相手にされるの絶対にない、従ってこの無始劫来の罪業を謂えども一挙にして滅び行くわけです。

《解説》
とにかく坐ることです。一分でも十分でも・・・・。
坐禅は、坐る時間、回数、期間の問題ではないのです。
法然、親鸞の念仏修行と同様です。
[南無阿弥陀仏]を何万遍唱えるかではなく“一心”さであると教えます。
念仏修行の方が庶民を対象といた指導ですから、わかりやすいです。
念仏修行では、“一心”に唱えろと言いますか、坐禅では、“一心”に坐れとは指導しません。
全てを超越した精神領域(解脱、悟り)は、まず坐る、まず[南無阿弥陀仏]を唱えることから始まるのです。
(徳忍記す)

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