魂のない肉体〜ゾンビ経済学〜  トーマス・セドラチェック

道具が生命を獲得し、独自の意味を、それももともと人間が与えた意味とちがう意味を持ち始めることがある。古今東西を問わず、道具が主人になった物語がいくらでもある。人間に仕えるべきものが生命を持ち、独自の理論をもって人間に立ち向かってくる・・・。それを恐れて、経済学者は 経済学から魂を抜き取ったのだろうか。経済学から意味や倫理や規範性が抜き取られて久しい。不当にも意味を剥ぎ取られた経済学が勝手なことを始めたからと言って、驚くべきではない。せめて、現在の「成長資本主義」に対する抗議の声として聞くべきである。

肉体から魂が切れはなされ、魂が肉体から切り離されたら、なにが起るだろうか。答え、はホラー映画とおなじなものだ。一緒にいるべきものが離されたとき、一方は魂のない肉体、すなわちゾンビが生まれる。ゾンビは人間である。いや、人間の生きる屍である。愛も慈悲心など人間らしい感情は一切失われ、ひたすら食って再生産する(食えば再生産するのであるから効率的である)。近しい人、たとえば友人、家族などが突然ゾンビになって攻撃してくるようなとき、事態はいっそう悲惨になる。 〜中略〜

善と悪の問題を経済学から切り離すことはできない。すなわち、道具から意味を、経済学から倫理を取り去ることはできない。

経済学からすっぽりと魂を切り離せるだろうか・・・とてもそうとは思えない。むしろ、経済学は独自の目的は意味を持ち始め、経済学者の考える通りではなく、自分の論理で動き始めるであろう。倫理の真空地帯は存在し得ないとのあり、おそらく人間のものではない別の倫理が作り出されることになる。

経済学を肉体と魂の喩えで語るなら、もうひとつの面があることを忘れてはなるまい。もうすこしだけ、ホラーにお付き合い願いたい。肉体が魂から切り離されると、ゾンビ(魂のない肉体)のほかに亡霊(肉体のない魂)が生まれる。亡霊はまた、ゾンビとは別の理由から恐ろしい。亡霊が人間を攻撃しないけれども、無言で凝視する。うつろな、恨みがましい、非難するような、その目。彼らは身の上に起きた不正や暴力を恨んで、生きている人間につきまとう。肉体を離れて浮遊する魂は、絶えず責め立て、不条理を過大に要求する。経済学の魂である倫理学が経済学から切り離されたときにも、それが起きたとは考えられないだろうか。倫理学は非現実的となり、過大な要求をし、経済学には扱い切れないことを求めるようになった。

経済学は、二本の足で立つべきである。つまり、肉体と魂の両方を持つべきである。 〜後略〜

※   トーマス・セドラチェック 善と悪の経済学 東洋経済 2015/6/11

pp.465-467

村上忍(バリ)

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