《良書で学ぶ!》   書名 〔臨済宗の常識〕

書名

〔臨済宗の常識〕

〜白隠禅師座禅和讃(を)学ぶ〜

《全文》

衆生本来佛なり(しゅじょうほんらいほとけなり)水と氷の如くにて(みずとこおりとごとくにて)

水を離れて氷なく(みずをはなれてこおりなく)衆生の外に佛なし(しゅじょうのほかにほとけなし)

衆生近きを知らずして(しゅじょうちかきをしらずして)遠く求むるはかなさよ(とおくもとむるはかなさよ)

譬えば水の中にいて(たとえばみずのなかにいて)渇を叫ぶが如くなり(かつを)さけぶがごとくなり)

長者の家のことなりて(ちょうじゃのいえのことなりて)貧里に迷うに異ならず(ひんりにまようにことななず)

六趣輪廻の因縁は(ろくしゅりんねのいんねんは)己が愚痴の闇路なり(おのれがぐちのやみじなり)

闇路に闇路を踏み添えて(やみじにやみじをふみそえて)いつか生死を離るべき(いちかしょうじをはなるべき)

それ摩訶衍の禅定は(それまかえんのぜんじょうは)称嘆するに余りあり(しょうたんするにあまりあり)

布施や持戒の諸波羅蜜(ふせやじかいのしょはらみち)念仏懺悔修行等(ねんぶつざんげしゅぎょうとう)

その品多き諸善行(そのしなおおきしょぜんぎょう)皆この中に帰するなり(みなこのなかにきするなり)

一坐の功をなす人も(いちざのこうをなすほとも)積みし無量の罪ほろぶ(つみしむりょうのつみほろぶ)

悪趣いずくにありぬべき(あくしゅいずくにありぬべき)浄土すなわち遠からず(じょうどすなわちとうからず)

辱くもこの法を(かなじけなくもこののりを)ひとたび耳にふるるとき(ほとたびみみにふるるとき)

讃歎随喜する人は(さんだんずいきするひとは)福を得ること限り無し(ふくをうることかぎりなし)

況んや自ら回向して(いわんやみずからえこうして)直に自性を証すれば(じきにじしょうをしょうずれは)

自性即ち無性にて(じしょうすなわちむしょうにて)すでに戯論を離れたり(すでにけろんをはなれたり)

因果一如の門ひらけ(いんがいちじょのもんひらけ)無二遣亦無三の道直し(むにむさんのみちなおし)

無相の相を相として(むそうのそうをそうとして)行くも帰るも他所ならず(いくもかえるをよそならず)

無念の念を念として(むねんのねんをねんとして)謡うも舞うも法の声(うとうもまうものりのこえ)

三昧無礙の空ひろく(さんまいむげのそらひろく)四智円明の月さえん(しちえんみょうのつきさえん)

此の時何をか求むべき(このときなにおかもとむべき)寂滅現前する故に(じゃくめつげんぜんするゆえに)

当処即ち蓮華国(とうしょすなわちれんじこく)此の身即ち佛なり(このみすなわちほとけなり)

〔座禅和讃の意味、解釈〕

井上暉堂 臨済宗の常識 朱鷺書房 2010/2/10 pp.56-57

迷える人は、もともと仏です。それは水と氷との関係にも似ています。

水と氷とが分離できないように、迷っている人と仏とは別人ではありません。

しかし、この事実を知らないで、自分の外に仏があると思って探しています。

この愚かさを譬えるならば、水の中で喉が渇いたと叫んでいるようなものです。

また、金持ちの家に生まれたのに、貧しい町をうろつくのに似ています。

地獄・餓鬼など六道に迷う原因は、自分が真理を知らぬゆえの迷路なのです。

自ら迷い出して迷うのですから生死(迷い)から脱することはできません。

摩訶衍(大乗)の禅を修めるなら、その功徳は実に大きいのです。

六波羅蜜の菩薩の修行も念仏や懺悔や他力の信心、自力の修行など、

数々の良い行ないもみなこの大乗の禅に包括されます。

今までの無量の罪も昇華するから六道などありようがありません。

ありがたいことに禅法を一たび耳にしたとき、その教えをたたえ喜ぶ人は

無限の福が得られます。まして自分みずから反照して、直ちに自分の仏性を悟るなら、

自分の本性というものもありません。すでに観念遊戯を離れているのです。

因と果とは相対ではなく、二もなく三もなく絶対一如であります。

相なき相を相として、執られることがないから往相も還相もなく、ただ「此処」であります。

心に何も念わず、念わないことも念わず、このとき何をしても仏法の真っただ中で、

なにもさえぎるものもありません。

仏の知恵は冴えわたります。このとき求むものもありません。

心身共に安まりますから、ここが浄土でこの身が仏であります。

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