《村上徳忍のエッセイ・シリーズ②》

[くれぐれも“脱サラ”すべからず!!]

(2)“脱サラ”の実態は、固定収入ゼロという現実の重さを知ることから始まる!

“脱サラ”と転職とは、違う。私の退職を前後して[船井総研]にコンサルタントの“卵”をして転職した知人がいた。また、東大を中退して(卒業出来ずに!?)リクルートのコンサルティング部門で中小企業の指導、教育を始めた高校の同窓もいた。いずれも似たような仕事であるが、立場が全く異なる。彼らは、仕事と収入(出来高払いであろうと・・)を保証されている“変則サラリーマン”であり、“脱サラ”ではない。

◎ 脱サラの第一歩は、[ムラカミ研究室]代表を名乗ることから始まった!

当然、自宅が事務仕事をする唯一の場所であった。
何から始めるか。手引書はない。(多分、書店に行けば、“脱サラ入門!”があったのかもしれない)
とりあえず、まずやるべきことを書き出し、これらに専念することにした。不安を打ち消すためにも・・・。
①. コンサルタント事務所設立(敬愛する薮下先生を真似て、ムラカミ研究室とした)
②. 名刺作成
③. 設立趣意書と専門分野、業務案内の作成(これに苦戦した記憶がある)
④. 自社封筒(2種〜A4用も〜)作成
⑤. ③を郵送
⑥. 挨拶回り(営業活動)
この間に「俺は、とんでもない間違いを犯したようだ!?」と確信したが、取り返しがつかないことも確信した。実際、一人の兄からは本気で意見され、口論となって、しばらく音信しない関係になったし、親しかった当時の人事部長からは軽率さを諌められてもいた。
今更・・・であった。

1年目は、以前よりお付き合いの有ったコンサルタントの方のご好意でその方の仕事(ある商工会議所との共同プロジェクト)のお手伝いを月次30万円に継続的に請け負って固定収入源とし、何人かの知り合いコンサルタント(教育専門)から仕事を分けてもらいやったのと、知り合いの企業の教育担当から独立の“ご祝儀仕事”をもらって“飢え”をしのいだ(はオーバーだが、5、6百万円の売上を得た。)

◎ 自前の仕事を得るための営業活動の工夫

2年目を迎えて、環境条件はより厳しいものとなった。ご祝儀は、一回限りである。回してもらった仕事は、持ち前の器用さでこなすが、メインで売り込む“商品(テーマ)”を持っていない。
独自の営業活動の必要性は分かるが、何を売るが、どのターゲットを狙うかが決まらない。

脱サラの大義である“日本の小売業界の近代化、産業化”は、“封印”状態であった、それどころではない。周りのお情けで仕事を分けて頂いている状態で、「何が大義か!」である。
もう一つの縛りがあった。前職の会社の知り合いに、間違っても“物乞い”としないことである。

前年の仕事で、全国の商工会議所、商工会には、経営指導員がいて地域商工業者向けの企画(講演が主)を扱っているらしいことを知った。私の講演が結構受けることも分かった。
それらの営業(講師の紹介)を一手に握っている業者に行き着いた。そこからの最初の仕事(講演)先は、何と網走商工会議所であった。講演料は3万円(税抜き)である。あまり安いので(予算の関係か?)生きのいい講師がいないようであった。

私は、程なくこのマーケットで“売れっ子”講師となった。売れ筋講演テーマは、「大型店に負けない商店経営」〜某大手チェーンストア出身者が明かすノウハウ!〜。また、商工会議所(商工会)婦人部向けには、ベスト・セラー「親業」からの子育てノウハウが定番であった。
全国の商工会議所(商工会)を回った。2年半程やったが、多い年は年間200カ所回った。
相手も交通費の問題もあり、近くの商工会議所(商工会)が組んで2日間で4カ所(昼講演、夜講演)をやったのである。お役所仕事で予算消化のため客集めが出来ず、会場にはストーブの周りにお年寄り2人なんてケースもあった。そんな場合、一緒にストーブにあたりながら、お年寄りの話しを聞いて上げた。こんなことも経営指導員の口コミで広がり喜ばれたようである。講演料も後半は6万円(税抜き)となった。この斡旋企業がビデオ教材作りをと企画し、それも新たなビジネスとなった。2年目、三年目は1年目より売上高が減ったが、自前の仕事中心の仕事内容となった。
無我夢中の2〜3年を過ごしたが、意識していたことがあった。それは、“教育コンサルタント”と言う肩書き表示での紹介を許さなかったことである。私は“経営コンサルタント”である。今は訳有って講演活動を主にやっているが、その日が来たら経営コンサルティングを生業(なりわい)とするのであると。

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