《村上徳忍のエッセイ・シリーズ⑦》

[くれぐれも“脱サラ”すべからず!!]

(7)“脱サラ”前後に発生した私生活での不運な出来事〜その①〜

話しが前後するが、私にとってのサラリーマンにおける(人生におけると言うべきであろう)最大のイベント(出来事)は、1980年の6ヶ月間(4月〜10月)の米国出張(シカゴ、ボストン)である。 後半生のライフラークのなるもの(科学的で合理的な店舗運営の思想と技術)に出会ったのだ。
10月中旬に帰国して、報告会とその後の展開の提案書作りとたぼうな日々を過ごしていた。 そんな最中に、会議中の私に妻より緊急という電話が入った。電話口の妻は取り乱しており、云っていることが要領を得ない。3歳の息子と清瀬の小児病院に来ているという。 これから、息子の緊急手術に入るので大至急病院に来て欲しいと泣きながら訴える。何度か聞き直し、質した結果こういうことであった。
帰国直後、私が息子と風呂に入った時に 息子の睾丸の一つが腫れていた。本人は痛がらない。電話の前日また一緒に入浴した際に気になったので医者に連れて行くように妻に指示した。その結果である。 掛かり付けの老医(大変優れた先生と評判の方であった)が、一目診て紹介状を書き「これを持って、今すぐに清瀬小児病院のこの先生を訪ねなさい。」と指示されたそうである。
清瀬小児病院では、担当医が患部の切片を検査して、「悪性の小児がん(腫瘍)であり、直ちに摘出手術を行う。」と告げられたということであった。

◎ 6時間を超える手術と3年間の抗がん剤治療(途中で転移がなければ・・・)

清瀬小児病院は、小児がんの治療で定評の有る病院だとその後知った。6時間を超える手術は、患部(睾丸)から転移を予想されるリンパ腺を徹底的に摘出する処置であった。 手術の成否は、今後の“転移”の有無で評価されるのである。幼児の発育が早いので3年間再発しなければ、“完治”だと告げられた。再発が確認されたらその時点で生存を諦めて欲しいとも言い添えられた。 生存率は・・・? と質すと、担当医は病例が少ないので・・とはっきりとは言いたがらない。
何度も執拗に聞くと「10数%前後・・・」と答えてくれた。

10数%の確率に賭けた家族の戦いが始まった。この3年間続けられれば、“生存!”という治療を3歳の息子に対して(それを見守る親に対しても)過酷を極めた。 こんなプログラムであった。3ヶ月に1度入院して10日ぐらいかけて集中的に抗がん剤を投与し、放射線を照射して“目に見えない”がん細胞を徹底的に攻撃する。3歳児には体力の限界までの治療である。副作用で吐き続けて、文字通り“骨と皮ばかり”に痩せ、頭の重さも支えられない程衰弱する。毎日妻は面会時間一杯病院で付き添い、励ます。
面会時間の終了の別れの数分は、今思い出しても耐えられない。「帰りたい・・」を泣き叫ぶ息子を看護婦さんに託して帰るのである。
これを3ヶ月毎に3年間繰り返す。
試練はこれだけではない。1ヶ月毎に“転移の有無”の検査結果を病院へ聞きに行くのだ。
“有り”は、[死刑宣告]である。 私は、この殆どを妻に任せた。仕事を理由(言い訳)にして逃げていた。それでも1ヶ月毎に“転移の有無”の検査結果は、逃げられない。妻と一緒に病院へいくか、妻に結果を聞かねばならない。当然、その日は仕事にならない。

こんな話しはこれで終わりにしたい。息子は強運にも生還した。3年間を乗り切ったのである。 娘(姉)も私もこの戦いに参加してしたが、息子と妻の戦いを後方で支援していただけを思う。 母親の強さは、驚嘆するに余り有る。生還を信じて疑ってはいなかった。 この間に、父親である私は、プロジェクトを“潰し” 、脱サラを模索していたのだ。

前回までの“淡々と推移した”ように記した背景には、こんな精神状態の自分がいたのである。 仕事(プロジェクト)が、進まないことを自分の実力不足を棚に上げて、弁解する理由はたっぷり有る、自暴自棄になる自分も許せる。
ただ、傍らで3歳(から5歳まで)の息子と妻は、生還を信じて“聖なる戦い”を脇目も振らず進めているのである。 多分、脱サラは不甲斐ない自分への“逃げの効かない”環境を課した究極の選択としか考えられない。今考えると、そのくらい常軌を逸した行為(ひょっとすると“自暴自棄的行為”)であった。
もしも、その後の成功も非凡なる人間であれば見通せることであるとしたら、私のような凡人は“自暴自棄”になったからこそ脱サラを選択し、当然のごとく塗炭の苦労を強いられたのであろう。
しかし、当時自分の苦労、苦しみなど息子と妻の3年間のそれとは、比べ物にならないと自戒して頑張ったのである。

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