《村上徳忍のエッセー・シリーズ⑧》

[くれぐれも“脱サラ”すべからず!!]

(8)“脱サラ”前後に発生した私生活での不運な出来事〜その②〜

昭和55年〜58年の間は、私と家族の生活は息子のガンとの戦いで明け暮れたと言える。
実際は、昭和56年を過ぎるころから、乗り切れそうだという希望的な観測が出始めた。定期的な抗がん剤の集中投与と放射線治療過酷ではあったが、息子も妻も慣れてきて気丈にこなしていった。

昭和58年に満を持して、私は会社を辞めることにした。この1年余り、社内浪人的生活をしていたが、これまでの情報、知識を整理することに役に立った。
退職後数年の経過は、前に紹介した通りである。

昭和63年(脱サラ後5年)8月、突然妻が倒れた。症状は脳内出血で医者の所見は〔戎毛ガンの脳への転移〕であった。
その後、平成7年12月死去するまでの7年余り、看護とコンサルティングの両立を図っていた。
コンサルタントのように、人を指導する立場の者は、同情されては仕事にならない。従って、指導先企業には、プライベートの事情は、ひた隠しにした。そんなことが出来るのか?!
するのである、何が何でも!
その経緯は、妻の葬儀と時に参会者の方々にお配りした〔御礼〕の内容をご紹介する。

◎ 〔御礼〕妻の葬儀でお配りした挨拶状〜部分〜」

妻恵子は、平成7年12月10日午後6時53分、家族全員にみとられて44年と9ヶ月の生涯を閉じました。
ことの発端となる発病は、昭和63年8月20日のことでした。
早朝、左半身の異常を訴え、間のなく頭痛を訴える呂律がおかしくなり、吐き気を催す同時に意識の混濁に陥りました。救急車で防衛医大病院へ運び込みましたが、脳内出血との所見で緊急手術が行われました。
診断結果は、[戎毛(じゅうもう)ガンの脳への転移]ということでした。
実は、故人は、その半年程前より、貧血と脱力感を訴えており、防衛医大病院での検診で腸にポリープが発見され、数日後に同病院で精密検査を受ける予定でなっておりました。結果的には、その前に倒れてしまったわけです。

10日間余りの危篤状態から脱した後が、驚異的な回復力を示し、リハビリ訓練の結果、左半身不随ながら、杖をついて室内を歩行出来るようになりました。そして、その年の12月末に退院し自宅に戻ることが出来ました。
退院時の状態は、
* 通常の会話は、可能
* 杖をついてトイレまでの介助なしの往復
* 左半身不随
* 家族、友人の識別可(部分的にぽっかり思い出せぬ部分もあるようでした)
* 直近の記憶が困難
* ものを書く、読む能力、気力が低い

脳の手術の結果、物事を悩むとか、イライラすることは全くなく、いつもニコニコしている日々でした。口から出る言葉は、何かしてもらうことに対する感謝の言葉、そして車椅子で家周辺を散歩する際には、すれ違う全ての方々へ大きな声で挨拶するといった素直で、底抜けに明るい“少女”といった感じでした。
また、自然の花とか、新緑、紅葉への感動、小鳥とか小動物への愛情は、以前とは比較にならぬ程、敏感で深くなったようでした。

しかし、一方では、TVショッピングの注文品が度々家に届き、びっくりして故人に確認しても覚えていません。(TVで「いますぐ、注文をどうぞ!」と云われて、「はい!」と注文してしまい、そのことは、すっかり忘れてしまっているわけです。)
また、日中、かってのPTAの役員仲間だった友人の方へ1日何回も電話して迷惑をおかけしたりしました(たった今、自分がした行為を忘れてしまうようなのです)。
目の前の見ず知らずの方の顔を見て「○○に似ている!」などと大きな声で云って家族を慌てさせたりしました。
“すずらん”幼稚園のバスを見ながら、「かぞかし、よい香りのする幼稚園なんでしょうね・・」と心から羨ましそうに云ったりします。
このように、故人の知的レベル、状態を把握するまでは、戸惑いの連続でしたが、総じて大変“愛すべき”病人でありました。

当初は、3週間に1度の通院検査、数ヶ月に1度の入院治療(抗がん剤の投与)を繰り返しておりましたが、平成2年、3年と脳に水がたまる症状(水頭症)に対する手術を行い、入退院を繰り返すたびに運動能力、知的レベルは徐々に低下していきました。しかし、素直さ、純粋さ、明るさは、変わりませんでした。

平成5年11月に肺へのガンの転移が発見され、その治療(抗がん剤の投与)の為、10数回にわたる入退院を繰り返しましたが、幸いなことに治療中の痛み、苦しみがなく過ごすことが出来ました。
平成7年10月には、肺がん細胞の切除手術も検討させましたが、体力的に術後の回復力に疑問ありという判断で断念しました。

そして、11月24日入院しいつも通りに抗がん剤投与も受けた訳ですが、今回は猛烈な吐き気に襲われ、12月1日昏睡状態に陥りました。
そして、12月10日18時53分、家族全員に見守られて、静かに息を引き取りました。

[故人との生活あれこれ]
〜一部略〜

昭和55年、私が半年間の米国出張から戻った直後に、長男(当時3歳)の悪性肉腫が発見され、清瀬小児病院で6時間に渡る手術(患部周辺のリンパ腺を全て摘出することにより、リンパ腺を通しての転移を防ぐためと聞きました)が行われました。
そして、その後の3年間は母(故人)と長男の戦いの日々でした。3歳の長男に対する抗がん剤と放射線照射の治療は過酷のものでした。髪の毛は抜け落ち、自分の頭の重さを支えるのがやっとという程にやせ衰えるまでに、抗がん剤で痛めつけ、体力の回復を待って、また治療を繰り返しました。
1ヶ月に1度、精密検査をいましたが、この結果、もし転移が発見されたら、その時点で覚悟してくれと云われておりましたから、故人が毎月の検査結果を聞きに行く日は、死刑宣告を受けるかもしれないという恐怖感と戦ってきた訳です。
毎日の面会時間が終わり別れる際に、「一緒に帰りたい!」と泣き叫ぶ3歳の子供を置いて帰る気持ちは、母親にとっては筆舌に尽くしがたい程の辛さがあったでありましょう。
生存の可能性は10数%と聞かされ、父親の私は最悪の事態も念頭に置きながら対応していたように記憶していますが、故人は、「絶対に治癒する!」信じて疑っておりませんでした。
私は、母親の執念といったものを感じましたが、母子はその戦いに勝ち、長男は“生還”したのでした。

そして、昭和63年より、家族4人の新たな戦いがスタートしました。実際、“戦い”という基本認識がなければ、切り抜けられない程の厳しい側面もあった7年あまりではありましたが、家族の生活としては、充実感ある日々でもありました。
私たち4人は、一つのルールを決めました。それは、誰か一人が負担を背負うのではなく、4人が応分の犠牲と負担を負って生活していこうというものです。

昭和58年に脱サラを敢行した私は、経営コンサルタントとして泊まりを伴う出張が月の3分生の1近くなることもあります。また、この間も数度の海外出張もしました。
その際は、子供二人に対応させました。食事の準備、故人への食事の介助、トイレの世話(最後の数年は、自力では動けない状況でした)は、学校に通いながらの対応は、それなりの負担であったでしょうが、二人協力しあいよくこなしてくれました。
日中は、ヘルパーの方々にお世話になりましたが、本当に親身になってお世話いただきました。7年余りの間には、4人では対処出来ない切羽詰まった状況も度々ありましたが、そんなおりには、近隣に住む私の兄や友人、知己の奥さんたちに助けていただきました。
一般的な家庭生活と比較すれば、子供達にとっては、過大な負担であったかもしてませんが、彼ら(姉弟)が得たものはそれ以上のものがあった筈です。
事実、私自身も多くのことを学びました。

例えば、[心配、支援、激励、叱咤・・・の意味の違いと受け取る側の気持ち]についてです。

急場の直接的支援は、無条件で助かりました。叱咤、激励は、挫けそうな心を支えてくれました。心からの“心配”は、声なき声援であり、戦う私たちの気力を蘇らせてくれました。

「遠くにいて何も出来ないが、元気で頑張っている幼い姉弟に、声援を送っている一人の年寄りが居ることを伝えて欲しい・・・」等々多くの声援と支援によって支えられた7年でした。そして、あらためて、自分自身がこれまで“戦う”人々にどんな言動をしていたであろうかと反省させられたものでした。

この7年間余りの生活を通して、私たち4人が、親子というよりは、同志的連帯感を持つことが出来ました。一般家庭ではなかなか培いない絆の確立できたのもこのような体験があったからこそだと思います。

これまで“戦い”などと表現して来ましたが、決して辛い、厳しい状況ばかりであったわけではありません。何よりも、常に明るい笑顔をふりまく故人を囲んだ生活は、充実した満足のいくものでした。

家族4人のこの7年間は、周囲の皆様の声援、支援があってはじめて成り立つものであります。そして、我が子ながら二人の子供たちにも賞賛と慰労の言葉を贈りたいと思います。

本当によく私を側面から支えてくれました。

最後に、故人に感謝と慰労のことばを贈ります。「ありがとう。お疲れさまでした・・」と。

長々と書き連ねましたが、私ども親子が悲しみのなかにも、ある種の“納得”と“充実感”を感じていることを皆様にお伝えしたかったのです。

私たちは、この7年余りの体験を活かしてそれぞれが新たな人生を開拓していく所存でございますので、今後ともご指導、ご鞭撻をお願い申し上げる次第です。

平成7年12月

村上 忍

佳南

貴徳

この妻の闘病と家族との闘病の7年間と前々回までのコンサルティングが重なっている。

1989年6月24日の【レイバースケジューリング】の出版記念パーティーには、妻、娘、息子を同伴し、出席の方々の一部に紹介した。これは、ハワイからお世話になった新宅春人氏がわざわざ妻を見舞うために出席されたからである。

この7年間の間にも、米国でのセミナーを殆ど毎年開催した。病状が悪化する中での開催は、妻より周りの方々に大変お世話でなった。

何故、そこまでやったのか。多分、「お前の世話をすることで、仕事のグレードを落とした。」と云ったら、妻のこれまでの献身ど冒涜してことになると考えていたのではないだろうか。(今は、定かには思い出せない)

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