〔斃れて后ち已む〕の真意

このコトバ(倒れて後止む)は、私が脳梗塞から再起した後の行動信条である。
私の気心知れた人妻(同窓生)からは、“周りの迷惑を顧みない独りよがり”と切って捨てられた。
そんな側面もあるかもしれないが、真意を弁解させてほしい。

(四書)五経のひとつ「礼記」の中の「表記」にあるコトバである。
こんな文節にある。≪身の老いるを忘れ、年数の足らざるを知らず。俛焉(べんえん)として、日に孳孳(しし)たるあり。斃れて后ち已む。≫

「俛焉」は、(伏せる、頭をたれる)で、「無理して推して務めること」
「孳孳」は、(字の意味は、生む、茂るの意味)で、休みなく務めること。
~全体の意味するところは、死ぬまで努力を重ねる、である。~

この心境になるには、再起後(退院後)数年かかった。
つまり、この心境を可能とする条件づくりに年月が必要だったのである。
この心境の条件とは、

◎(周りの人たちに面等を見てもらい、心配をかけている状況から)ヒトのお役に立っているという実際と実感持てる状態
◎(健康保持が主目的ではなく)終わりのないライフワークを組み立て(次々と計画し)、取り組んでいる状態
◎日々それを楽しむという心境
どれも、努力が必要にあった。決して“独りよがり”では、到達できない“代物”である。

初期には、焦りがあった。その“心境の条件”に到達する前に、病気の再発に襲われるのではないかという恐怖と焦りである。幸いにも、その期間を乗り切った。
今、私は学ぶことに貪欲である。教えることに貪欲である。ヒトの会うことに貪欲である。成長することに貪欲である。全てが楽しい。そして、諸々の課題の達成を共に喜び合う機会と仲間に恵まれている。
しかも、決して焦らない。

≪朝(あした)に、道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり≫である。

2012年3月19日
村上 徳忍(記)

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